鱗燦堂のブログ | 谷重岳路の本(電子書籍等)の販売PRを行う鱗燦堂です

鱗燦堂
ブログ
2021年01月10日 [鱗燦堂]

とても『飢餓海峡』を読みたくなって

 もともとは工業高校を卒業すると同時に就職するはずだった。それでふつふつとしていた。ほとんど授業には出ず、図書館で本を借りては、建物の裏の芝生で寝っ転びながら本を読んでいた。それでも見兼ねた先生が声をかけてくれた。担任の先生ではない、化学の担当の先生だ。化学は大の苦手、授業にもほとんど出ていなかった。あるとき行いの良くない数人の仲間たちと化学の授業をサボって別の教室にたむろしてダベッテいた。そこへ業を煮やした化学の先生が怒鳴り込んで来た。「もう二度と化学の授業へは参加するな。近々ある期末テストは、お前たち全員、白紙で出せ。欠点(落第)にならないように30点は無条件に出す」と。ほんとに怒っていた。もともと化学が大の苦手だった僕は、内心よろこんだ。で宣告されたとおり、期末試験を白紙で提出した。白紙で出すと言うことは、それなりに勇気のいることだった。なにか高校生の身でありながら社会とは隔絶して、ジェットコースターの外に振り落とされるような、漠とした不安があった。どうやら先生の宣告を真に受けて、白紙で提出したのは僕だけだったようである。先生は約束通り、白紙の回答に欠点逃れの30点を与えた。それはそれなりに僕に一抹の寂しさを与えたが、それから先生は親身になって、声をかけてくれるようになった。「おまえ、ほんとはもっと勉強がしたいのじゃないのか」なぜか、こたえた。ぐさりときた。それで、大学の二部を受験することになった。
 前置きが長くなった。前置きを長くする必要があった。近畿大学の受験の試験会場が遠方の受験生のために、姫路工業大学に設定されていた。僕はいいかげんであったのである。試験日を勘違いして一週間早く姫路工業大学を訪れた。試験などあるはずがない。僕はその足で、姫路城を訪れた。観光でないことは確かである。
 平日の姫路城の場内は静かだった。たしか冬のうすどんよりした空模様だった。城内を清掃する年輩の作業員の姿が話し声と共に遠くの方で動いた。奇妙な空間だった。もとより観光を楽しむ気分ではないし、冬の、午前の、ひんやりとした空気感はひどく僕を孤独にさせた。冷たく、凍てついた土を踏みしめながら、遠くの空を見上げた。鉛色の空だった。これか!なぜか水上勉の小説のエンディングに使われた、後味の悪い事件が終息したあとの、ベテラン刑事が無力感に苛まれながら見上げた空を彷彿させた。こんな鉛色の空だったのかと。
 もう五十年も経過して、なぜか水上勉の『飢餓海峡』を無性に読みたくなった。映画ではダメなのである。ストーリーを知りたいわけではなく、水上勉の文章が醸し出す空気感を味わいたかったのである。
 上下2巻ある大長編の小説をほとんどあっという間に読了した。犯人は最初からわかっている。その犯人の生い立ちからブラックボックスになっている北海道での生活を、刑事たちが執念深く追跡していくのである。雷電海岸という場所がある。この世のものとは思い難い奇岩巨岩があるところらしい。水上勉はある風景に出会い、その風景を際立たせるように物語を膨らませていく。
 黒澤明監督の『生きる』のポスター


PageTop