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鱗燦堂
【名優 志村喬さん】
 ここは六本木にある、ちょっと有名な洋菓子店。銀幕スターやテレビでよく見かけるタレントがよく顔を出すお店。そこで上京してきたばかりの葉二は勤務している。と言っても、それは1976〜1977年ころのお話。
 ある日、ひょっこり志村喬さんがお孫さんを連れてお店に現れた。志村喬さんは仕立ての良さそうな黒のスーツ姿。勝手な想像であるが、お孫さんの何か祝い事のあった日かも知れない。いわばハレの日である。祝い事のついでに、孫を喜ばせようと洋菓子店に足を伸ばされたのかも知れない。
 いろいろなケーキが並んだ大きなショーケース。お孫さんはショーケースを覗きこみながら、おじいちゃんにケーキをねだろうとしている。どれにしようか二人で相談している。
 葉二は注文を受けるべく、ショーケースの中のケーキを取り出す準備をして、腰を屈めている。
 さぁ、いよいよ注文。葉二はショーケースの手前から、お客様の様子をうかがった。名優・志村喬さんの瞳がキラキラ輝いた。まるで映画のカメラを覗きこむように、葉二の正面にその瞳はあった。葉二は息を飲んだ。どきどきした。息が出来ないような感覚だった。なにしろ名優のキラキラ光る瞳がショーケース越しに、まるで演技を追うカメラのレンズのように真傍にあった。
 名優とお孫さんのひとときの映画のワンシーンが葉二相手に披露されたのである。葉二はしばらく息がつけなかった。
 六本木でのお店の短い、短いお話である。

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